2008年12月30日火曜日
最適性と人間の行動選択
人間は将来の情報を基にして、一時の判断を下すことはできない。
これは、情報が時間に対して不可逆的に遷移するためで、決断は全て過去の情報を
基にして行わなければならない。
この事実は当たり前過ぎるわけだが、一方で人間は将来の事象を予想し、
その予想された情報を基にして、現在の決断に利用することが多い。
そして、その際の情報の種類には2種類ある。
1つめは、将来が不確実なために予想に誤差が含まれてしまうような情報を利用して決断をする場合。
これを、情報の不確実性の制約と呼ぶことにする。
もう1つは、現在の自分の立場・状況のために、既に存在している情報を手に入れることができず、
ある程度時間が経たないと知ることができない情報を予想して決断をする場合。
これを、情報の範囲の制約と呼ぶことにする。
そして、後者の場合は面白い考察対象であり、ここではそのことについて考える。
情報の範囲の制約に当てはまるものの例として、学生が就職活動をする場合がある。
学生が就職先を選定する際に、真に最適な決断を行うには、社会のあらゆる状況に関する情報を
予め持っておく必要があるが、そのような情報はある程度時間が経たないと得られない。
しかし、その種の情報は既に発生しているのであり、その情報が得られないのは、
現在の自分の状況が原因となる。
つまり、学生をやっている限り、社会人の状況を完全に知ることは不可能であり、
にもかかわらず、学生は就職活動に当たってそのような情報を予測して決断しなければならない。
これは情報の範囲の制約となる。
この種の情報は、時間が経ち、情報を経験として知ることが出来るようになって初めて
得られるものであり、後々、「あの時はこうすべきだったのか」という考えが出てくることもある。
真に最適な行動選択は後々になってから決定されるものだが、
情報の範囲が制限されているために、準最適な選択肢しか現れてこない。
これに対して、情報の不確実性の制約は、将来にならないと知る術はなく、
自分の努力うんぬんで変化するもでもない。
また、将来に至までに状況が変化することによって、予想とは全く異なる結果が発現するだけでなく、
様々な要因が結果に影響を与えてしまう場合もある。
この場合も選択肢は準最適とならざるを得ないが、準最適性は本質的に不可避な選択肢と言える。
ちなみに、この考え方に依れば、この記事さえも情報の範囲の制約を受けていることになる。
2008年12月20日土曜日
ROAを改善する
ROA = Return Of Asset(総資産利益率)
個人の場合なので、Returnには実収入の他に自分の成長という非現金収入(?)も
含めることにします。
最近、自分のROAを高めようと努力しています。
といっても、利益を増やすことは中々難しいので、
逆に資産のほうを少なくしようとしています。
身の回りの物を少なくすることで、頭の中もすっきりして、
ROAも高くなるという二重の効果を狙ってます。
できることならば、ノートPC一台だけで暮らしてみたい。
それって、知的労働をする理想的環境でもあるわけです。
無駄なものに囲まれず、集中して1つのことに取り組むことのできる状況。
物質的にも、精神的にも身軽でいたいものです。
# 単にゴミ捨てしてるだけじゃん、と気づかないように。
2008年12月10日水曜日
OpenCL 1.0 リリース
OpenCL 1.0リリース
http://slashdot.jp/developers/article.pl?sid=08/12/10/0245221
OpenCLがリリースされました。
これにより、GPUの計算能力を簡単に利用できるようになると期待されます。
最近のGPUは、3Dアニメーションを使わなければ、オーバースペックすぎるほどの
計算能力を持ってしまっているわけで、これが有効活用できれば、様々な新しい試みが生まれるかもしれません。
例えば・・・
● 気象データ(気圧配置、気温等)と地形データから、明日の天気予報を数値計算で求める
とか、
● 経済情報から、将来の経済シミュレーションを行って、投資判断に用いる
なんてことを、個人のPCで行えるようになるかもしれません。
もしくは、
● 全地球の気象シミュレーションのスクリーンセーバー
なんていう洒落っ気の効いたプログラムも作れそうです。
ミニスパコン化するPC、貴方はどのように使いたいですか?
2008年12月2日火曜日
具体的?抽象的?
一般的に、抽象的な学問の例として数学が挙げられます。
「無限大」だとか「極限」だとか「空集合」だとか、イメージしても具体的には
書き表せれないような概念がわんかさ登場します。
では逆に、具体的な学問の例は何でしょうか?
1つの例として法律が挙げられるかもしれません。
六法全書を開けば、具体的な法律条文を見渡すことができるし、
頑張れば各条文ごとに読んで理解できるかもしれません。
しかし、本当のところどうでしょうか?
検討してみましょう。
数学は厳密な論理構造を基礎とします。
まず、「公理」を立て、概念を「定義」し、そこから「定理」を「証明」によって導きます。
例外は一切ありません。例外が証明されてしまえば、それは定理になります。
数学の議論でこのような手順を踏む理由は、論理を疎かにすると、1+1=1なんていう証明が
簡単に作れてしまい、計算の正確性なんてものがあったもんじゃないからです。
するとどうでしょう。数学では全てが定義から始まるので、その内容は非常に具体的です。
定義を解釈して別の意味で使うなんてことはしません。
(この式の1は、ここでは0として扱うなんて話は聞いたことありませんよね?)
従って、数学は思考は抽象的でありながら、表現は非常に具体的であると言えます。
一方、法律の場合を考えてみましょう。
法律は「趣旨」や「目的」を重視して作成され、その趣旨も時代に合わせて変化するものです。
言ってしまえば、「こう思うから、こうした!」というようにある意味ジャイアニズムとも言える
内容も含まれています。
すると、その根拠というか理論的なバックグラウンドを考えた場合に困ったことになります。
解釈によってどうとでも考えられるようになってしまうのです。
これが、○○説、○○主義なんて名前で呼ばれて、複数の主義主張が対立する事態になります。
そしてそれぞれの当てはめによって条文の解釈が変わってしまうのです。
(過失といっても、じゃあどこからが過失で、どこまでが無過失なのかの判断に困りますね。)
従って、法律は具体的であるように見えて、表現は曖昧であったりするわけです。
自然科学系の学問は前者の例になることが多いようです。
演繹的アプローチですね。
対して、社会科学系の学問は後者の例になることが多いようです。
帰納的アプローチです。
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